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  • 執筆者の写真Christ.seishokan Numata

福音は神の力


「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」ローマ人への手紙
1:16

 この「力」という言葉は、デュナミスというギリシャ語で、ダイナマイトの語源になっており、「奇跡、強さ」とも訳すことが出来る。福音とは、ダイナミックな爆発的な神の力であり、大いなる神の奇跡と言える。



筆者の元の性質は、打算的で、合理的でないことはしたくないし、損得勘定が強く、冷たい人間だ。そんな私が、毎週日曜日、なぜ教会に通うのか。こんなことは、時間の無駄と考える人もいます。また、病院で相談員として人の助けをしているし、一人の妻の夫となって、血や心の通う交わりをしている。



それは、神の力である福音に触れ、ダイナミックな人生に変えられたからだ。

多くの人の人生を、全く新しいものに変えたのが福音だ。



「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」とあるように、すべての人が対象となっている。神は、あなたに福音の力を届けたいと思っておられる。




「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」ローマ人への手紙1:20


神の存在、永遠の力と神性は、被造物によってはっきりと知ることが出来る。



私は、ペットとしてミミズを100匹飼い始めたが、それは生ゴミの処理をさせて堆肥を作ることが出来るからだ。ミミズは、骨がないのにどうして、固い地面にもぐれるのか。それは、ロールケーキのように、部分的に固い面を作ることが出来て、もぐっていける。一日で体重の半分から同じ重さの有機ゴミを食べて処理する。糞の栄養は、土より、窒素は5倍、リン酸7倍、加里は12倍もある。微生物が体の中の食物を分解し、口からより糞の方が微生物が8倍になり、その微生物がさらに有機物を分解する。おしっこは、液肥で、スーパー肥料になる。



人工のゴミ処理場は、どれだけのエネルギーを使っているか。しかし、ミミズは、天然のゴミ処理場である。このミミズを誰が創ったのか。この知恵のある方を、聖書は神と言っている。人間が作った神ではなく、人間をお造りになった神が聖書の神で、愛と目的を持って世界を創られた神である。




「・・・すべての人が罪の下にあるからです。
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
悟る者はいない。神を求める者はいない。
すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」ローマ人への手紙3:9~12


「すべての者が離れて行き」は、「すべての人が迷い出て」とも訳されている。

何から離れ、迷い出たのか。それは、真の神、創造主からで、聖書が語る罪の本質はここにある。命のルーツである方から離れた生き方が死。



神に対し、あなたなどいりません、という生き方をしていた。

私もあなたも、神の前に罪人である。



何が救いなのか。福音、good newsは、どこにあるのか。

キリスト以前に書かれた旧約聖書に、350~400のキリストの預言がある。



イザヤ書53章

 BC700年に書かれたこの箇所は、イエス・キリストの十字架について語っている。


「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」53:4~6


 私たちすべての者の罪、とがを、神はイエス・キリストに負わせた。


「虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。」53:8~9


 キリストは罪を犯さなかったが、私たちの罪の身代わりに十字架に付かれた。


「しかし、彼を砕いて病を負わせることは【主】のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」53:10~11


 イエスは、十字架にいやいやかかられたのではなく、自ら進んで、私の罪を負って、十字架に向かって下さった。


「それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」53:12


 イエスは、ご自身を死にまで明け渡すほどに、私たちをあわれんで下さった。何か私たちがあわれまれるにあさわしいことをしたのか。NOである。そして、今復活されている。



「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ人への手紙5:7~8


 クリスチャンは天国に行きたいので神のために働く者ではなく、天国に行く保証をして下さったのでうれしくて仕えている者である。

罪人であった時の私たちに対する愛がうれしいので、いつも従っていく決心をしたのがクリスチャンである。



「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ人への手紙1:16~17


 福音には神の義、つまり救いが啓示されている。

「信仰に始まり」とあり、信じることには段階がある。


①聞く

聞いたことのないものを信じることは出来ない。重要な第一歩で、神が教えて下さることは何なのか、福音のメッセージを聞き続けてほしい。信頼できるメッセージを聞いてほしい。


②よく考える。

よく考えて信じなさいと勧めている。盲信を勧めていない。ご自分のこととしてよく考えてほしい。全部理解できるから信じるのではない。結婚では、すべてを知ったので結婚するのではなく、ある所で、この人は信頼できると信じて結婚する。


③同意して従っていく

聖書が神の言葉であると同意できるなら、信じて従っていってほしい。


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