ヨハネの福音書18:1 ~3
「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」
この記事は、十字架にかかる前にイエスが捕らえられた記事である。
キデロンの谷の向こうは、たびたび弟子と会っていた場所で、ユダも知っていた。ユダは最後の晩餐を中座して、人々をそこに連れて行った。
イエスがユダに、「なすべきことをしなさい。」と言われて中座してから、2時間はかかっている。ユダが知らない場所に行こうとすれば、出来たはずである。それなのに、なぜ逃げなかったのか。
ヨハネの福音書18:4
「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。」
何が起ころうとしていたか。逮捕され、平手打ちを受け、39度の鞭を受け、茨の冠を受けることを知っておられた。39度の鞭は、命は落とさないが、重傷になる鞭である。そして、自分で十字架を背負うように強要された。
キリストは、これから起こることをご存じで、進み出られた。
父なる神から与えられたなすべきことをすること、父の御心を行うことが、私の食物だと言われた。
マタイの福音書26:39「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」【新共同訳】
これから受ける十字架での御苦しみ、経験することのない死んでしまう苦しみ、罪人の身代わりに、一つである父から捨てられる苦しみ、愛する弟子から離れなければならない苦しみ、色々な苦しみを「杯」という言葉で表現している。
ヨハネの福音書18:7~9
「イエスがもう一度、『だれを捜しているのか』と問われると、彼らは『ナザレ人イエスを』と言った。イエスは答えられた。『わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。』これは、『あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった』と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」
イエスは弟子たちを守るために、進み出られた。
弟子たちを一人も失わないために、すべてご自分に起ころうとしておられることを受けるために、進み出られた。
この弟子たちは、私たちのことを表している。
ヨハネの福音書3:16
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
罪が赦され、新しいいのちを受けて歩むために、イエスを神と知ることが大切。
私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つために、十字架にかかるために、進み出られた。
それは、私たちが、イエスが愛される群れ、教会に加えられるためである。
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